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2024/5/29 直ちに行きなさい!木と人が待っている

ロン・サーカ・ミニストリーズ

2024年5月29日; イヤル 21, 5784


そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。(コリント人への手紙第一2章4節)


山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。主は仰せられる。(ハガイ書1章8節)


主は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせるので、彼らは彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった。(ハガイ書1章14節)


直ちに行きなさい!木と人が待っている


先日のロシア向け使徒的ウェブ集会で、主は終末の収穫について私に語られました。私は、福音のミニストリーが単なる教えや言葉以上のものであり、「御霊と御力の現れ(1コリント2:4)」でなければならないことを話していました。実際、私たちが福音を伝えるたびに、主ご自身が「しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました(ヘブライ2:4)。」これは私たちの多くにとって問題なのではないでしょうか。福音の言葉を教え、分かち合う方法は知っていても、しるしや不思議が伴うかどうか確信が持てないのです。


そこで私はハガイ書1章に導かれたのですが、そこで預言者は、今こそ神殿を建てる時であるとはっきり述べています。人々は悲しいことに、自分たちの力ではどうにもならない状況のために、今はその時ではないと結論づけていました。しかし、ハガイの言葉は強く、明確でした。 「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう。主は仰せられる(ハガイ書1:8)。」


「木を運ぶ」という言葉が目に飛び込んできました。神の国の建設に携わり、終末の収穫にあずかりたいと願う私たちにとって、この言葉は何を意味するのでしょうか。聖霊はなぜこの言葉を強調されたのでしょうか。「木を運ぶ」とは何を表しているのでしょうか。


まさにパウロが言っていたことを表していると思います。パウロは、実際に神の神殿であるエクレシア(クリスチャン)を建てることができるようになるためには、御霊と力を現すことが必要だと言いました(1コリント3:16-17参照)。木(あるいは他の建築材料)がなければ建物を建てることができないのと同じように、私たちは御霊の示し、つまりしるしや不思議や奇跡がなければ、どんなミニストリー(収穫を含む)も行うことができません。それが私たちの「木」です!


ここからがすごいところです。彼らは山に行くだけでよかったのです。木はいくらでもあるはずです。たった数本の丸太を見つけるために何日も何日も探し回るようなことではありませんでした。木はどこにでもあるのです。行って取ってくればいいんです。 私にとってこれは、1)収穫は今、2)「主よ、私を使ってください」という考え方を持ちさえすれば、すぐに聖霊が神のつながりや力との出会いを整えてくださるということです。私がどこかに行ったり、誰かと話したりするたびに、聖霊もそこにいてくださいます。物事が起こり始めます。神ご自身が癒しや奇跡、しるしや不思議をもって証ししてくださるのです(ヘブル2:4参照)。実際、私が話したり教えたりするたびに、私は奇跡を期待しなければなりません。もしそれを期待しないなら、悔い改める必要があります。メッセージや教えをする時だけでなく、店や銀行やリハビリセンターに行く時もです。


「民」という言葉も印象的でした。「主は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせるので、彼らは彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった。(ハガイ書1:14)。」私たちは、行く先々でさまざまな聖霊の現れを期待するだけでなく、神が私たちを人々と結びつけてくださることも期待できます。私たちと同じように心を奮い立たせるクリスチャンもいるでしょう。他の多くの人はクリスチャンではないでしょう。しかし、彼らの心もまた、主に心を奮い立たせられ、目覚めることでしょう。あなたは一人ではありません。今がその時だからです。心を奮い立たせる人々が大勢いるのです。


お祈りを感謝します。


ロン&テディ










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